衣恵の神秘
やって来る。「来る」? このような〈来る〉を見たことがあるだろうか!?
衣恵はひとつの〈謎〉。
やって来る──誰ともなく、夢のなかのように、夢のように、近づいてくる、運ばれながら、歩行にではなく。地に舞う飛翔に運ばれて、思い出が現前しながら過ぎてゆくように、到着しない思い出、不動の動きとなって留まり、動きもせず、不動でもなく、虹色のシルエット、幻たちの生地にり込まれた、
見るのをやめることはできない。向こうでは私たちを見つめてはいない。眼差しで私たちに触れることはない、それは見ている──何を?──自己の内側で──「永遠」、とランボーなら言うだろう、永遠の内面
過ぎゆく永遠、とジュネなら言うだろう。青春──自分のことを泣いている、と三島なら言うだろう
やって来る。ほんとうなのだ、それは〈彼女〉。詩人なら誰でも知っている、知識ではなく、恍惚、輝く啓示であるこの知恵のことを。彼女は歩いている、と言うことはできない。それとは違う。漂いながら進んでゆく、絹の水の上を小舟が過ぎゆくように。彼女は翼。無限の花の上を前進する、そして私たちは魅惑されている。
ほら! ひとつのフレーズ! そこに! 私たちの耳元でふるえている。「« あれは舞姫? »*」まるで黄色い蝶が舞っているよう、亡き愛しい者たちの霊が墓の上をひらひら飛び交っているよう。
衣恵の秘めた名、その謎が奏でるメロディーのよう、
見てはいるけれど、何が見えているのか人は知らない、その声を聞くと、超自然的なものに呼びかけられている気がする、彼女の存在の全てはとても遠くから来ている、私たちの感動の奥底から。やって来る、速くもなく、遅くもなく、運命に命じられたかのような物腰で、ひとつのメッセージとして。わされている。足は思考のように動く、詩のシラブルのように。問いとなることのない問いのようにやって来る。怖じ気づいて不安な私たちには分かるような気がする、彼女はあの名高い死者の国から来ていると、年齢を持たず、美が持続している国。感じられる、私たちを魅惑するもの、それは彼女が続いているということだと。
彼女の〈奥底からの声〉が初めて私に触れたのは、太陽劇団での正午だった、私たちはキッチンのそばで昼食を取っていた、小さな木のテーブルで──たぶんそうだったと思う。衣恵は上演前の腹ごしらえをしているところで、楚々とした若い女性の雰囲気を漂わせていた、心の状態を統制していて、きちんと書かれていて、過度なところはまったくなかった、そのような現実の状況のなかで、彼女の声が私をった。未知の楽器から発した魔法の声、チェロの荘重な響きをもって、創造された、濃密な、リズミカルな、どこまでも深い。言葉では表現できない。あの〈声〉!何か尋ねてもいいのだろうか、彼女は...なにか神々しい発明なのかも? 星から来ている? シェイクスピアの言うあの音楽?すると〈声〉は私に答えた:
そう、その声は、作品だった。それは衣恵がみずからの声帯、喉、息、気管支、腹で行ってきた長く驚異的な仕事の賜物だった。
彼女は自分の筋肉に耳を傾け、体のあらゆる資材を探索し洗練させる。全てが語る。彼女の足は音楽家、腕と手は詩人。魂は彼女の繊維のすべてを通して語り、発音は彼女の問い、不安、希望のヴァリエーションを翻訳する。彼女は転位のうちにある。
そして存在を芸術作品へと高める行動は空間へ、劇場それ自体へ伝わってゆく。衣恵の地を舞う飛翔を追いかけ、その顕現が踏破する回廊を進めば、あなたは感じるだろう、回廊は距離を愛撫しながら展開して日々となり、諸世紀となるのを
彼女の周りの空は羽ばたき、灰色の鶴のように舞い上がる、ほんとうは詩の文字であるあの鳥たち、日本のダンテが空気の布のなかへ生き写しで描いたのかも知れない詩の
エレーヌ・シクスー
2022年12月31日
*« あれは舞姫? »:アルチュール・ランボーの後期韻文詩Est-elle almée?...(あれは舞姫?)への参照。 本文中の「「永遠」、とランボーなら言うだろう」も後期韻文詩「永遠」への参照。